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PERFECT BLUE

渋谷のシネマヴェーラで「ナインティーズ:廃墟としての90年代」という特集が17日からあるようだ。

オウム真理教地下鉄サリン事件や阪神大震災を折り返し地点としての「失われた15年」

という文章で思い出す。以前に1995年は間違いなく90年代で最も重要な年であったと思い、この年に何があったかすべて書き出してみようかと思ったことがあった。結局そういうやり方は僕のものじゃないと思ったので、やめた。簡単に言うと面倒だったのだが、それでも95年は僕が橋本治なら「'95」という本を書くに違いないほど重要な年だったと思う。

しかし、ごく最近の僕は90年代のことよりも「おそらくこの2007年は2010年代の始まりなのだ!」という考え方に夢中になっている。僕はあと3年の内に、次の10年において1つの核となりうる何かが現れると信じている。何なのかは無論知らないが、これはつまり既に新しく2010年代が始まっているという意識であり、逆に言えば2000年代は2006年で終わったという感覚を持つということである。ここで、ろくに考えを巡らせる術を知らない誰かが「ナントカは終わった」と一言言って4~5日騒ぐ手段にしたがるようなものではないと断り書きをしなければならない。実に面倒なことだ。それはともかく、この考えはたまたまアニメージュの2000年2月号を読んだときから次第に形を成してきていて、要するに年代記の各年代においてキーワードとなりうるものは、その前年代の後期には登場するという、1つの、アプリオリな(つまり至極うさんくさいという意味だ)考えである。70年代ヒッピー文化を象徴付けるサマー・オブ・ラブは68年で、ピストルズは78年には解散し、セカンド・サマー・オブ・ラブは88年なのだ。そしてインターネットが爆発的に普及したのが97年である。こういう考え方というのは何の根拠もなくとも、夢中になって考えているときは楽しいので飽きるまでは楽しみたい。少なくともムーアの法則よりは僕にとって楽しめる。

話が脱線しつつあるが、さて僕はこの特集の中に「PERFECT BLUE」があるのを発見し、そういえばこのアニメがどうしても見られなかったことをも思い出した。DVDをもう5回ほどレンタルし、そのうち3回くらいは冒頭のステージのシーンまでしか見ず、残りの2回は再生する前に返却期限が来て返却したはずである。一体なぜだったのか。そこまで見られないのは大きな謎だと思ったので、椅子にかじりついてでも見ることにした。

この作品が作られたのはシネマヴェーラのサイトによると98年らしい。だから、なのかどうかは知らないが、この物語には私たちの00年代において最も大きな意味を持った「インターネット」が効果的に、そして懐かしく登場する。パソコンや東京の街並みも含めて、細部の全てをアニメの虚構に置き換えなかったことは、この作品の大きな美点として指摘していいだろう。主人公はPerformaを購入し、ネスケ2.0でウェブをブラウズしている。主人公のパソコン用語に対する当時にして当然ありうるレベルの不理解は、10年後では成り立たなくなっている。また、彼らが持っている電話機も面白いと思った。携帯電話は既に持っている人がいて当たり前のものには一応なっている。しかし物語を左右する小道具として当然のようには登場しない。例えば事務所の社長が携帯を持っていても、主人公は持っていないのでそれを使って外部へ助けを求めるという発想は出てこない。携帯電話の普及率が97年以降爆発的に伸びたことから考えると、この描写はかなり事実に即していて当時としてもリアルなものだったのではないだろうか。トレンディドラマ以後なのかもしれないが、現代劇においてはたびたび不自然に新しいテクノロジーが時代背景を無視してごく当然のもののように登場するので、このようなリアリズムがあるのはいいことだと思う。コードレス電話の受話器デザインが、アンテナはないがちょっと丸みを帯びた黒っぽいものが多かったのも当時っぽさを感じて面白い。

話の筋書きについては特に言うべきこともないとも言えるが、逆に言えば女性マネージャーが登場したときに最初から怪しいと思ってしまえるようになったことが、この10年で物語というものに起こったことを象徴しているとも言える。ただ、この作品は筋書きだけで見るようには全くできていないので、筋についていささかでも言葉を挟むのは野暮なことなのかもしれない。

見始めてずっと、言いようのない不安感、心臓が捕らえられているような嫌な感覚を味わいながら見ていた。筋としては前述のようにほぼ自分の手の内にあると言っていいのに、なぜこの作品は全体から圧倒的な緊張感を感じさせているのか。それをずっと考えながら見ていた。最初は、常に次の瞬間に何か破綻を起こしそうな雰囲気を持続させることでそれを成り立たせているのかと思ったが、そうでもないようだ。ずっと考えていても分からないので、自分が知らない緊張感を煽る演出がなされているのだろうかと思った。何しろ僕は映像表現に知識がないので、映像的に何かをやっているのだろうかと一所懸命画面を見たりした。

しかし、現実と妄想と主人公の出演するドラマの世界が大きく混乱しはじめたあたりで、ようやく何かに思い当たった。これらの世界が混乱を来しているということは見ていれば誰でも分かることだが、しかしこのアニメはアニメであることを完全に利用し尽くして、何が現実であるのかを全く感じさせないようにしている。例えばアイドルとしての自分と女優の自分が同時に同じ部屋に立つシーンで、どちらの存在も現実のように見せることができながら、そして重要なことには、どちらも虚であるように見せることもできるのだ。今日、実写において一人の人物を同じシーン内に二人出すことは不可能ではないが、しかしその場合は「実体がふたつある」という意味しか作ることができない。この作品は、現実と妄想、そして劇中劇にわざと絵としての差を作らず、アニメとしてすべてを同等に描いてしまうことで「どれも実体ではない」という意味を作り出している。

こうして、主人公は妄想の存在であるアイドルとしての自分という存在を浸食され、妄想の存在が常に生き生きと歌い踊るのに対してやつれていくが、しかしそのやつれた姿も虚構でしかないことが示される。それを強調する必要はなく、アニメーションはただ物語を伝えているだけで不安な存在になる。いわゆる「信頼できない語り手」としてあるのは主人公ではなく、神の視点を持った作者という存在でもなく、映し出されている映像のすべてになる。「真実」が明らかになったはずのラストの格闘シーンでさえ、街に一人の通行人もいないとか、主人公がマンションからブザマに落下しているのにアイドルとしての自分は軽やかに空中を飛ぶことができるとか、しかし、絵としては全くアイドルの自分でありながら、現実としてはサイコ野郎と化したマネージャーだとか、現実として説明のつかない、かといって妄想としては片付かない展開が続く。もはやこの映像のどこに確かなことがあるのか、視聴者には完全に分からなくなってしまうのだ。これは非常に見事だと思う。

こうして、あらゆる瞬間が信頼できるものではないことこそが、この作品が発している緊張感の源である。先に書いたような小道具がリアルに描いてあるのもわざとで、現実感覚を混乱させるための1つの仕掛けなのだろう。僕が過去に何度も最初のシーンまでで見るのをやめたのは、おそらくこの張り詰めた緊張感に無意識に引っかかってしまったせいではないだろうか。思えば最初のシーンから、時制を前後させたカットを連続させて不安を煽っていたのだ。全く、わずかなセリフから一瞬の映像に至るまで、すべてを計算し手を入れ尽くした作品なのだ。それができるのもまたアニメの強さだということも、作り手は自信満々に把握している。そこに自負のようなものを感じた。

2007.02.13 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [アニメ] [映像

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