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東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム

当初、僕は東浩紀という人を誤解していた。彼の仕事において対象への熟知がない故に、細部にわたっての正確さがないことを批判的に断じたことがあったと思う。しかし研究家とか学者とも違う、彼はダイナミックな絵を描く、今どきまっとうな意味で批評家だったのだ。僕は後にそう考えるに至らなかった自分を恥じた。

その考えがはっきりとまとまったのは、ロフトプラスワンで2003年に行われた「夜のファウスト祭」を見たときだと思う。東浩紀はものすごい情熱をもって、ライトノベルのシーン全体が全く未成熟であること、関係者とファンが一体となって信じている盛り上がっているという意識なんて内輪のレベルにすぎないことなどを語った。それは浮かれた状況に冷や水を浴びせて悦にいるような子供じみたものではなく、またコミュニケーションの一助として議論をふっかける学者や論壇にありがちな醜悪な態度でもなかった。素晴らしい愛情があった。彼は本当にライトノベルのシーンが盛り上がっていると言えるのは、外部社会に対して圧倒的な影響を及ぼしたときだと考えていた。これはライトノベルやアニメなどの文化に、彼が真の、あまりに深い愛情を注いでいることの現れである。その文化の社会における途方もない価値を見抜いて世に伝えるのが批評家である。それを全世界が無視できなくなり、世界を侵して、既存のものを丸ごと上書きしてしまえばいいとすら期待するのが、批評家の愛情の最も昂じた姿だ。細かな知識として正確かどうかなどそこでは問題ではなかったはずだったのだ。僕は素晴らしいと思った。あのイベントは西島大介君が「よかったら見に来てよ」と言ってくれたから見ることができたんだけど、本当に見てよかったと思う。

批評家はライトノベルのコミュニティ内に迎えられてありながら、たった一人で外部を気にしていた。彼が苛立った調子で「このままではいけないのだ」と熱っぽく語り続けるほどに、会場には白けた空気が流れた。彼を「ライトノベルに好意的なはずの人」としてしか認識していなかった人々には、彼が何をしたいのか全く理解できないか、せいぜい、裏側に意図があってこういうことを述べる人間としてしか批評家という存在を理解できなかったのである。

東浩紀の文章を読んで彼の情熱が分からない人は、ぜひ彼が語るのを見聞きするべきである。ガガガ文庫のポッドキャストでは、ライトノベルについて彼の全く同じ議論を見ることができる。これはテキストとして起こされているが、ぜひ音声で聴かねばならない。彼の主張を字面通り受け取らなければならないが、字だけを見てはいけないのである。

かように東浩紀の言論にはダイナミックさとラディカリズムがある。それは俺イズムでありB-BOYイズムであると言ってもいい。 だから北田暁大との対談集「東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム」において東浩紀に強く一貫した主張があり、自分にはそれがなかったとあとがきで北田暁大が述べるのも、ある程度当たっている。ラディカルゆえに危うくありながらも、東浩紀は常に同じ軸を持った主張を繰り返すことができている。

この本の、東京都心の各街がジャスコ的なものの遍在によって個性の失われた郊外として成り立ち、中央線沿線のような「個性のある街」は共同幻想型テーマパークとしてしか残られないという議論はとても面白かった。これは第一章で語られている渋谷についても同様ではないかなと思った。先日の記事で、僕はAKB48「制服が邪魔をする」が疑似恋愛を提供するアイドルの曲としてリアリズムを保てていないことについて、

「女性としての性を求められるが故にハードな現実を生きる制服少女」という90年代的なキャラクター性は、パロディとして現在について批評的な視線を投げかけるものではない。つまり僕は「渋谷で援交する少女から垣間見える歪んだ現実(とエロ)」というリアリズムは2007年においてほぼ成り立っていないのではないかと思っている。

と書いたが、これは本書でも言及されている宮台真司の「ユミとユカの区別もつかない、匿名的な女子高生たち」にかかわっている。本書では宮台真司が90年代当時に行った分析について、従来的な疎外論の構図である

彼女たちは家庭や学校という落ちつける場所から、ストリートという落ちつけない場所に追いやられているという図式

ではないものとして肯定している。AKB48「制服が邪魔をする」が提供する物語はまさにその疎外論の構図から来るものであり、それ故に2007年においてはせいぜい援交AVのストーリー部分としてしか成り立っていないと僕は書いた。だが、本書の第二章以降の議論を援用すれば、今の渋谷は「ストリートを『第四空間』とする路上の少女」をも既に園内におけるキャストの1人として取り込んだテーマパーク化しつつあるのではないかと思う。

僕がAKB48と対照的なものとして挙げた松浦亜弥やBerryz工房にとって都心とは次のようなものである。

オシャレをしたなら街に出て
違う子にでもなったようなメイクして
裏原あたりで出会った子と適当に騒いでBYE-BYE

あるいは、こういうものである。

池袋 過ぎたって
この愛はえ・い・え・ん

どちらもストリートは居場所として求められず、彼女たちは門限までに帰るべき生活空間を持っていることがはっきりと分かる。それがどこかというと、彼女たちの曲のあらゆる部分で強調される、学校と自宅周辺というリアルであり、それがすなわち本書がテーマパークと対置したところの「郊外」である。つまり松浦亜弥やBerryz工房がなぜリアルだったかというと、00年以降において本書の主張通りに郊外化しつつある都市の中に正しく少女達を配したからなのだ。彼女たちは渋谷にも、六本木にも、秋葉原にも、下北沢にも、リアルな存在としてもテーマパークのキャストとしてもいない。「池袋を過ぎたってこの愛は永遠」というフレーズが真に愛らしいのは、彼女たちが我々に対する恋をテーマパークでのデートから帰っても続行するという確認を行ってくれるからである。

本書はさまざまな問題提起をしてくれて、僕にいろいろと考え始められることがあった。まず本書は沿線文化を自明のものとして扱っているな、と思った。これは作者が両者とも関東出身であることから来るのかもしれないが、東京における「住む路線によって異なる沿線文化が存在する」感覚はやや伝わりにくい。地方人は都心に引っ越した瞬間、最も近い盛り場として新宿、渋谷、池袋、そのほかどこを選ぶのかを潜在的に選ばされており、大学生などはほとんど人生を選んでいるようなものなのだ。ほかの都市でも、例えば阪神沿線には阪急、JR、阪神という3路線があってそれぞれに生活水準や文化が異なるが、これらの路線は両端で大阪と神戸に収束するため結局さほどの違いはない。東京においては沿線が違うと接続されるターミナルが違い、住む人々が全く異なるということがあまり解説されていないのは地方から来た者として面白く感じた。

また、最近のサブカルは下北沢や中央線に求められる形でステロタイプ化しているということに気づかされた。90年代的なサブカルには郊外型のものがかなり多いはずだ。小沢健二、岡崎京子、安達哲などが描いた90年代のサブカルは確かに渋谷などを中心として見ながら自分たちの生活空間である郊外をそれ以上に描写したはずである。僕は地方人だし、寡聞にして知らないのだが、岡崎京子のあの川、あの団地はどこだと考えたらいいのだろう? ばるぼらさんに尋ねたら何か語ってくれるだろうか。90年代ブームと言われる中で「渋谷系」や「バブル」を語るのはたやすく分かりやすいし、現在の東京の郊外化を語るために「ファスト風土」を参照するのは手段の一つとして全く正当だが、90年代に東京を描いていたとされている作品群の中から、当然の生活空間としてあったはずの郊外がどのようにあったのか考える余地はありそうだと思った。

ともあれ東浩紀は彼の言う「動物化」を十分に展開させ、東京についてもダイナミックな考察を傾けている。それをライトノベルと変わらず行えるラディカルさが、彼の一貫性そのものでもある。彼の一貫性についてはもう1つ言わせてもらおう。話がずいぶんと前後するが、先ほど紹介したガガガ文庫のポッドキャストをテキストに起こした部分から引用させてもらう。しかし繰り返して言うと、これは音声で聞き、そして彼の熱意を感じるべき内容である。

佐藤:なるほど。前回の鼎談では、ブログっていう手軽なツールがあるによって、みんな小説を書かなくなっていってるんじゃないか、という話がでてきました。ブログを書くという行為は「消費」なのに、それを「クリエイティブ」だと勘違いしているから、それういう現象が起こるのではないか、と。ネットで文章を書く、デジタル化した文章を読む。メールや携帯電話、最近はモバイルマシンもそうですね。そこで文字読むことに慣れている人間に対して、紙媒体である文庫をアピールしていくことが、ライトノベルをつくる上での命題だと僕は思うんですが… そのあたりってどう思われますか?

東:いや、ブログはあまり気にしなくていいんじゃないかな? ネットで感想をいっぱい書く連中は、たとえブログがなかったとしても、どこかで衝動を発散すると思うし、それで満足する人もしない人もいる。それはデジタルとは関係ないと思います。
ただ、僕が問題視しているのは、プチ書評みたいなのがネットに出回る速度が速いので、評価が固まるのも速いこと。たとえば、さっき言った新井素子は、僕は当時、ほんとに偶然に本屋の棚で発見しているのね。新井素子の世間的な価値がどういうものかは知らなかったけど、とりあえず自分的には気に入ったから、それを大切に読むわけ。そうやってずっと面白いと思いながら読んじゃったものって、あとあと「あんなのダメだよ」ってもし言われたとしても、頑張るんですよね。でも、今ってそういう経験がなかなかできないでしょう。「とりあえず読んだ。ふーん、おもしろいな。でも検索してみたらみんな悪口言ってる。やべー。オレ地雷踏んじゃったよ。もう読まない、終了! 」みたいな感じですよね。


佐藤:最近思うのは、人が物語に共感する力。小説でも映画でもゲームでも「こうなってほしい」という願望と、実際の展開がズレた時に、自分の中で処理することができない受け手が多い気がする。少しズレると「それは鬱展開だからナシ」とか言って切ってしまう。そして、その感想がネットによって伝染していく。これは東さんがさっき言ったことに近いのかなと。

東:そうですね。意見の相互調整のシステムが整っているということですよ。それはネット全体がどうってことではなく、ブログとかソーシャルネットワーキング・サイトのサービスの問題なんで、「デジタル」の問題とは別ですね。この辺は、ここ2、3年で急速に変わりつつある。2000年ぐらいの個人ホームページの時代と今は全然違う。何かについての意見を共有できやすくなってしまったので、作品の評価にしても無意識に一瞬で相互調整してしまう。それはあまりいい状況じゃない。いろんな人にとって不幸なことだと思います。逆に、ベストセラーも出やすいだろうけど。でも、全体的には、面白くないんだよなー、個人的に。

これは去年の6月に語られた内容だが、彼は2005年にもちゃんと同じことを論点として持っている。彼が今のインターネットで問題に感じていることは明らかなのだ。

最近は、BLOGとかがあるので、普段からいろんな意見を浴びて、若いうちから他人の意見を受け流す技が上達しているし、またそういうのが賢いと思われている。社会学は、そういうときとても便利なツールとして使われている。つまり、「俺はお前の意見とは違うよ」と言っても、「ああそれはそういうコミュニケーションなんだね」と、するっと受け流してしまう。でもそういうことを言っていると大成しないので、物事には真剣に取り組むべきです。
つまり本を読むときには、若いうちには、「ここには真理が書いてある」と思って読まなければだめだということです。「こういうような時代もあったんだな」とか、「こういうことでコミュニケーションをとっている学者もいたんだな」とか、そういうメタな読み方をしていてはダメです。そこには真理が書いてあると思って読まないといけない。そういう社会学的な読み方というか、メタレベルな読み方は、30代になってやればいい。『波状言論S改』(青土社)を自分で作っていて言うのもなんですが、「社会学的な知」が蔓延することの危険性はその辺にある。つまり受け流す技と言うのが、ちょっと拡がりすぎている。

これを見て、ネットを批評的に論じた話題としてのみ興味を惹かれて消費し二時間くらいで忘れたり、また「ブログのシステムがそうなっているから仕方がない」と言って終わりにしてはいけないのである。これらの指摘は、ライトノベルについて彼が「このままじゃダメだ」と喝破したのと同じ真摯な態度でなされている。だから両方の主張を同時に音声で聞けるあのポッドキャストは聴くべきなのだ。これを聴いて、そして白けていてはいけない。この問題提起がライトノベルの件と同じく重要であり、このブログで、また過去に書いたテキストで僕がたびたび説明している内容と全く共通のものであるのは言うまでもない。僕は「ブログのシステムがそうなっているから仕方がない」というようなことを言う人以上に、環境が人間を作るということを信じている者だが、しかし社会学というものが、人間が自分たちについて考えるのをやめるために使われるべき方便でないと知っている。それは自分を甘えさせる詐術だ。そんなことはもうすっかり明らかなことなのである。東浩紀はそれを許さずに、我々に対して情熱的に語り続けている。

2007.02.17 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [音楽

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