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レイトン教授と不思議な町

大変忙しくなってきて文章が書けない。だいたい最近ここに書く文章は3~4時間かかったりするのだ。信じがたい。そんな時間はさすがに取れない。負けてたまるかよって気にはなるが、しかし10日くらいいきなり更新しないかもしれない。困った。そんな中、昨日は西島大介くんの家に行ってきた。「All Aboutマンガっち」の販促で雑誌に掲載される対談の相手に選んでいただいたのだ。僕と西島くんが仕事で話すなんてとても面白いことで、実際とても面白くて、対談という読み物のことを全然考えずにいつも西島君と話すように話し込んでしまった。結果的に「マンガっちとは一体何なのか」という突っ込んだ話になってしまって面白かったんだけれど、でも、あの話を文字に直すのは大変そうだと後で心配になる。

忙しくてゲームはさすがにやれなくなってきた。「レイトン教授と不思議な町」をやっていてもなかなか没頭できない。これは簡単に言えば流行りの知育ものゲームをオーソドックスなAVGの形式で作った、というゲームだ。物語が何となく不気味なノリになっていて、そこに魅力を感じるのだがよく味わう暇がない。

ゲームの技術的な発展が、すなわち物語を可能にすることそのものだった時代があった。今では考えられないことだ。その成果として「アルカノイド」や「ぷよぷよ」が物語になり得たことを誇っていいと思う。やがて技術力は物語を表現しうるかというレベルを超え、ゲームにとって物語が少なくとも存在することはたいしたことではなくなった。ゲームは「いかに物語を演出するか」という段階に至ったのだ。

「脳を鍛える大人のDSトレーニング」に代表される新しい知育ゲームは、従来「ゲーム」として考えられていた以外のものを提供していると言われる。なるほどその通りに見えるが、そこで意識されねばならないのは、ということはこのような新しい知育ゲームは従来「ゲーム」において選ばれる要素を排除しつつ成り立っているということだ。そして、従来的な「ゲーム」にあった要素として最も簡単に捨てられたのが、物語なのだと僕は思う。もともとパズルゲームなどにおいて、物語は容易に消し去ることができる。プレイヤーの能力のみが試されることを端的に示すために、物語は結局のところ邪魔でしかなく、ゲームを解く主体がプレイヤー本人であることを分かりにくくしてしまう存在だ。

かくして、DSの人気を底上げした新しい知育ゲームは、あくまでもプレイヤー自身とゲームシステムとの対話によってゲームを進行させる。ルービックキューブやクロスワードパズルが物語を必要としないように、「脳を鍛える」物語は不要なのだ。「脳を鍛える大人のDSトレーニング」はその点で最も過剰だった。評価の対象になるのはプレイヤーの脳そのものなのだ。それに与えられる点数とは、一般的な「ゲーム」におけるスコアと似ているようで異なる。その数字はゲームという閉じた世界における価値ではなく、即座に現実世界での人間を計る尺度としてあろうとする。「あなたの脳年齢は」という言い方は、ゲームという「現実以外の世界」を存在させようとしない。そこにはいかなる意味でも物語が成り立たない。ハドソンの「パズルシリーズ Vol.3 SUDOKU 数独」は最近の知育ゲームを把握しきれずに不用意にキャラクターを登場させてしまい、「数独2」においてそれを改めた。それはまさに改善すべきことだったのである。

「レイトン教授と不思議な町」においてAVGという従来の「ゲーム」が持っていた要素は、人物との会話やたまに挿入されるムービーなどに見られる。画面内をタッチペンで触ってクリッカブルな場所を探したりもできるが、開発者としてはここに複雑なゲーム性を込める必要はなかった。このゲームにとってゲーム性の大部分は、言うまでもないがAVGではなく「ナゾ」と呼ばれる知育の部分にあり、形式的に導入されたAVGはユーザーインターフェースと物語だけを受け持てばいい。

知育ものにプラスアルファとして物語を導入するという点では先ほどの「数独」と大差ないが、僕はゲームにおける物語が何を表現したがってるか見るのが好きなので、物語と暇つぶしになるパズルの同居を歓迎できる。しかし、このゲームは前述の理屈から言えば現在の知育ゲームの流行りには逆行している。「ゲームになじみのなかった人」のために作られる流行りの知育ゲームとしてありたいなら、物語性に対しては消極的な方がいいはずなのだ。このゲームがそれを選んでいないことは、僕にはこれが「流行りの知育ゲームを楽しめない従来のゲーム好きたち」も楽しませようとして作られているように見える。新しい知育ゲームが、新しいユーザーの開拓にのみ注力して従来のユーザーを駆逐しようとしているわけではもちろんないのである。お話の複雑さはさほど求めず、代わりに雰囲気やイメージに深くこだわる世界になったのは、ゲームの物語性に異なった態度を取る新旧のユーザーをいずれも見捨てないための折衷案だったのかもしれない。

2007.02.22 | | コメント(3) | トラックバック(0) | [ゲーム

コメント

> 「流行りの知育ゲームを楽しめない従来のゲーム好きたち」
まさに私です!そしてレイトンは買いました!
知育なんかを謳い文句にされると無条件に反骨精神が出てしまう自分がいます。たぶんゲームをやりすぎると阿呆になるとか目に悪いとか外で遊べとか言われ続けてきたことが関係しているんだと思うんですが、それを任天堂が言っていたわけではないのに不思議なものだなと思います。レイトン面白かったです。

2007-02-24 土 23:22:17 | | mugei #- [ 編集]

mugeiさん、コメントをありがとうございます!

「知育なんかを謳い文句にされると無条件に反骨精神が出てしまう」というのは面白いですね。「現実では役に立たない」と糾弾されたからこそ、現実的な価値を持たされたゲームを否定してしまう。

まあ、僕も現実において役に立たないから何が悪いのか、とは思うかな。でも何だか妙だな。うーん。

まず、そもそもフィクションやゲームなどの非現実を、「現実において役に立つかどうかで判断する」ということには、違和感があるわけですね。大昔には「最近の若い者は小説ばかり読んでいるから頭が悪い」と言われたし、今はゲーム脳なんていう「科学的な」定義を作り出して否定するのが流行なわけですね。最近の知育ゲームはそういう議論へのカウンターとして登場し、功を奏したわけですが、いずれにしても焦点となっているのは「現実で役に立つか否か」でしかない。

しかし、ここで物語が否定され、有用性だけが求められていたとしても、いずれにせよ人がエンタテインメントとしてそれを選び、没入しているのは一緒だ、と僕は考えたいです。だから絵空事を描いた作品を愛する僕と、脳トレを楽しみ「あるある大辞典」の嘘に怒る人、そして「水からの伝言」を強く信じる人も、そんなに変わらないのかもしれないな、と思います。そこで何がどういうふうに受け入れられているかを今は考えていたいかなあ。

まさしく受け手の受容によって意味が作り出されるってわけで、これは「物語」という言葉の定義がもうすぐ曖昧になっていきそうな話ですね。以後はそのへんをもうちょっと整理しながら書いてみたいと思います。

2007-02-25 日 00:56:28 | | ソメル #- [ 編集]

> 「物語」という言葉の定義
このサイトを見ていてすごく疑問に思ったことの一つなので、どういう展開がされるか楽しみにしています。脳トレとか「あるある大辞典」って、自分が登場する物語、という見方ができるのではないかと思っていまして、他者がつくった物語に自分が登場している状況を自分にとっての現実であると錯覚するので「怒る人」が出てくるのかなあ、と考えると、やっぱり「没入しているのは一緒」ということになりそうです。

2007-02-25 日 11:54:12 | | mugei #- [ 編集]

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