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愛のひだりがわ

ここ十日ほど体調を大きく崩して、久々に熱を出した。毎年楽しみにしている代々木公園のタイフェスティバルにも行けなかったし、仕事もずいぶん遅れてしまった。昨日ようやく体調が戻ってきて締め切りに遅れながらコラムを1つ書き上げられたので、今日はここを更新できるし、ほかの仕事をすることだってできるはずだ。

体調を崩した理由はいろいろあるが、一番大きな理由は本を読むのに熱中しすぎたことだと思う。どうやら僕は小説を読むことができるようになってきたので、信じられなくて毎日ハイペースで読んでしまったのだ。

実際のところ、僕は10年以上の間、まともに小説を読むことができなくなっていたのだが、今回たまたま筒井康隆の「愛のひだりがわ」を読んで、もう一度小説を読み始めることができた。この本はなぜだか家にあった。買った覚えがない。うちには買った覚えがない本がずいぶんあって、そういう本は誰かから借りているのを忘れているのかもしれないので処分することができない。この本もそうだった。

なぜあるのか分からない筒井康隆の本を自分が持っている、ということに興味を惹かれたので読むことにした。僕は中学生のころ筒井康隆をよく読んでいて、子供なりに文庫や単行本を古本屋で買って集めたりしていた。結局、僕には好きな作家の本をすべて揃えるようなコレクター性みたいなものがなかったので、それ切りそういうことをやったことはない。だから筒井康隆の本だけは今でもうちに結構な数あったが、この人の最近の本は全く読んだことがなかった。たまたま「愛のひだりがわ」を読む直前にアニメの「時をかける少女」を見ていたが、だからといって筒井康隆については何とも考えなかった。

読んでいたころは、僕はこの作家の本のオビに「狂気」とか「毒」とか書いてあるのが好きになれなかった。筒井康隆の本は中学生の僕にとって楽しい読み物だったが、しかし彼の熱心な読者たちがはやし立てるように、作中に狂気や毒や反社会性が顕著に見られるから面白いと感じていたわけじゃなかった。また単に僕が読者として若かったからなのかもしれないが、宣伝文句や読者評にあるように、文章に戦慄を覚えたり深い感動を覚えるようなことがなかった。

ところが今回「愛のひだりがわ」を読み終えて、僕はすごく感動した。正確にはこの小説の最後の行を読んで、これはメチャメチャすごい小説だと思って感動したのである。実は、僕はこの小説を読み出す前にたまたま本の一番最後のページを開いてしまい、僕はそこに書かれている言葉を読んでしまったのである。それはこういう内容だった。

わたしは、愕然とした。
わたしはもう、犬たちと会話をすることができなくなっていたのだ。

この文章はこの素晴らしい小説の核心であり、最後のオチだと言ってもいいような部分だ。僕はそれを知りながら読んだのにもかかわらず、最後にこの部分を読んで鳥肌が立つような感動を覚えたのだ。この物語をプロットだけで理解すると、この引用はネタばらしであり、つまり最悪な行為でしかない。しかし今、僕はこの小説は本当にいいと思うから、上記の文章を知って読んだって感動できるのだということを確信している。僕は小説が読めないでいる間にそういうことを理解して、それを理解し終わったから、僕はずっと前に読まなくなってしまった作家の小説を今読んで、当時ですら得られなかった感動を覚えられるようになったのだ。

そうやって、自分が小説を読み通したことについて僕は考えていた。そのときはまだ実感がなかった。だが僕はその後すぐに米澤穂信の「さよなら妖精」を読み始めたのである。これについてはまた書く機会をもうけるが、僕はそれを通読して、本当に自分が再び小説をちゃんと読めるようになったということを理解したのだった。

2007.05.24 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [アニメ

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