スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--.--.-- | |

パンドラ Vol.3

漫画の話が続くが、講談社BOXの企画で漫画家の西島大介さんと一緒に、一年間の予定で「ひらめき☆マンガ学校」という「漫画の描き方講座」を行うことになった。今特設サイトで参加者を募っているので、基本的に抽選になるけど、ぜひいろいろな方にご応募いただければと思います(今月いっぱいで締め切りなので急いだ方がいいのかも)。去年の夏にやった一日漫画教室の拡張版というわけだが、実際にはこの企画は2年近くかけて西島君と一緒に考えたもので、それがいよいよスタートするという感じ。内容は一言で言うと「漫画の描き方」ではなく「漫画家になる方法」をやる、というものになるのかな。先日人に説明したときにも「参加したいけど絵が描けない」と言われたが、そういう人ですら漫画家になれてしまう、というコンセプトがある。むしろ「絵の描き方」のようなものは一切やらないはずだ。だから漫画家になりたい人はもちろん、漫画を読むのが好きだとか、漫画批評に興味があるとか、漫画じゃなくてもいいから何かしたいだけの人とか、幅広い方に参加していただけるはずです。

今の漫画業界は主に戦後からずっと続いてきたやり方で成り立っていて、原稿持ち込みをして、漫画賞を獲って、漫画家のアシスタントになって、編集者と共に企画を叩いて連載デビューする、というものになっていて、しかし最近ではその枠にとらわれないような「漫画家」が誕生している。また一方で「漫画の描き方」を扱う本は、ほぼ技術的に高度な絵の描き方に終始して、本当に漫画という読み物を作るためにどうやればいいのかは結局分からない。以上のことから、今日的なノウハウを「漫画教室」にできないだろうか、というのがこの企画である。中身については、去年の夏にやった一日版の全内容が「パンドラ Vol.3」に掲載されているので、見ればだいたいどういうことをやるのか分かります。興味のある方はぜひご覧ください。同じ講談社BOXの企画である東浩紀さんの「ゼロアカ道場」との差別化を意識するように「参加者全員が100%マンガ家になれる!!」という惹句がついているのだが、この文言は講義内容のヒントというか答えになっていてちょっと面白い。「パンドラ」には一日漫画教室に参加された今日マチ子さんを迎えての鼎談も掲載されているんだけど、そこで「漫画などの文系ジャンルの中には実は体育会系的なノリがあって、そういうものになじめず居場所がないと思っている人に勧められる教室だ」という話をしていただいていて、これはこの教室とか西島大介という作家のスタンスを的確に表している言葉だと思う。

ところでこの「パンドラ」は、今までの号とガラッと変わっていてちょっとびっくりした。表紙が吉原基貴さんの絵になっている。この人の絵はたとえて言うなら丸尾末広の漫画作品のようなハードな印象があり、そのためどことなく懐かしい90年代以前のサブカル誌のようなとんがったセンスの表紙になっている。今どきこういうのを、とくに若者向けの商業誌でやるのは嫌いじゃない。

内容にも変化があって、一言で言うと批評に関するものが多くなっている。批評に興味のある方が読むと楽しめるのではないか。巻頭の「ひぐらしのなく頃に」特集からして論考が中心で、藤田直哉さんなどが書かれているのが面白い。東浩紀さんのゼロアカ道場に関する考察もある。僕も「ゼロアカ道場」の第五回関門レポート記事を書かせていただいた。また宇野常寛さんの連載が始まっていて、今回の「ダークナイト」論については、「ゼロ年代の想像力」について僕が不満に思っていた点、例えば音楽についての考察が全く抜けている部分などをフォローしようという書き手の気概が感じられて面白く読めた。

しかしこの本でやけに面白かったのは編集後記として書かれた部分は野崎編集長が講談社BOX編集部員の立場から「ファウスト」「ライトノベル」そしてこれまでの「講談社BOX」を総括していて、これはけっこう刺激的な読み物だと思う。雑誌がこういう自己言及的な読み物を載せることにはいろいろな意見があるだろう。というか、これは編集者の所業としては読者を煽るようなものだから、これに対して読者からいろいろな意見が起きないのなら、編集者の目論見にとって残念なことではないかなと思う。個人的には、こういうのは時代の変化をどう捉えて舵を切っていこうという作り手の意志がはっきりと出る部分なので好きだ。

しかも「パンドラ」は編集長の交代制を標榜しているので、今号の作り方が必ずしも今後の同誌のカラーになっていくというわけでもないのだ。次はどうなるのか全く分からない。今どきこんなノリで雑誌を作ってしまうところがちょっとすごい本だなあと思う。

2009.05.14 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [マンガ] [文章

漫画をめくる冒険―読み方から見え方まで― 下巻

ブログを更新できないのはとても辛い。毎日、辛い。辛い辛いと思いながら日々を過ごしている。

とどのつまり、僕の場合、ウェブサイトを運営することを生活と切り離すことができないのだろうか。そうではないものとして作りながら、しかしいつも、どうしてもそこから逃れることができない。

一般的に、そんなことは考えるべきことではないのかもしれない。それに、ウェブには素晴らしい書き手がひとりいて、その人は、ウェブに書くものは究極的には日記であって、だから終わりのないものだ、そのことに忠実であれ、まして結末など設けるべくもないものだ、というようなことを言っている。僕は、いいものを書くその人に敬意を払っている。しかし、それは僕のやり方とは違うとも思っている。僕がウェブで10年、やってきたことは、その人とは違うやり方だったように思うし、これからもそうだろうと思う。ウェブにものを書くとき、別段その人を意識して書いているわけではない。逆らわなければならないと思ったこともない。しかし、ウェブサイトの作り手として、僕の考え方というものがある。これは作品なのか。あるいはただ日々の営みの残滓なのか。いや、どちらでもなく、そのせめぎ合いの中にこそ僕がウェブで書くものはあるはずだと言いたい。そう書くと、あまりに自己弁護的なのだろうか。最近は、そういうことをよく考えるようになった。

書くたびに告知ばかりのようだが、告知がある。もう明日だが、蒲田で行われる「文学フリマ」においていずみのさんの「漫画をめくる冒険」の下巻が発売されて、僕はこの本に解説を書かせていただいた。これは本当にいい本で、文学フリマ以後にももちろん店舗やネット上で販売され続ける(サイトの記述によるとメロンブックスにはもう入荷しているようだ)から、ぜひ多くの人に読んでいただきたい。

僕がこの本を読んで思ったことは、これは必ずしも漫画に限った本ではないな、ということである。もちろん、そういう評価にいずみのさん自身がどう思われるかは分からないし、またいずみのさんはこの本で、漫画を解析するための理論を構築しているというのは間違いないことである。もっと言えば、次々に作品が作られ、どんどん消費されていく漫画というメディアに対して、どうやって豊かな読み方をするか、という理論を作られている。

しかし、僕が漫画に限らないと言うのは、この本が、例えば漫画が好きな人や、あるいは漫画読みと呼ばれるような人にだけ読まれてしまうのはもったいないように思うからだ。いずみのさんがここでやっていることは、漫画に限らず、我々が「作品」に対したときに、それをどうやって享受するのかということなのだ。

そして、その裏にあるのはやはりインターネットなどで一般ユーザーが「作品」について語る状況ではなかろうか。漫画理論の本だと言ってもいいが、しかしそれが使われる環境を思ってこそ、本書は書かれている。だから、漫画論だから、漫画に興味がない人は読む意味のないものだなどと思わなくていい。また、「漫画論にとって重要な本ができた」とばかり言わなくてもいいはずだ。いずみのさんは新しい漫画論の書き手として優れた人で、その分野で寄せられる期待は言うまでもないものだが、僕は、小説でも音楽でも映画でも絵画でもゲームでもアニメでも演劇でも、ひょっとして批評でもいいだろうが、誰かがアウトプットした何かを受容しようとしている人にとって価値のある本だと思う。いずみのさんは「作品」の成り立ちを作者だけに任せないし、かといって読者だけが作品の内実を弁別できるというような言い方もしない。作者と読者が行う活動の間から「作品」というものが生まれるという奇跡に、この本は敬意を払おうとしている。今は、広い読者がその姿勢について考えていい時期だと思う。

さて、このブログの話に戻るが、しばらく、いくつかの記事がそれなりに間をおかずアップされるだろう。僕にとってはうれしいことに、間違いなく、そうなる。なぜかというと、もう書いてあるから。

2009.05.09 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [マンガ] [文章

リアル鬼ごっこ

「リアル鬼ごっこ」という小説の評価は全くひどくて、それは知っていた。いわく、物語の筋が陳腐であり、かつ展開が矛盾したものであったり突飛であったりして、とても読むに耐えないのだという。こんなものが何万部も売れて、映画化まで決まるのはおかしいという。Amazonのレビューにはそういう罵詈雑言を書き連ねたレビューがどんどん掲載されている。それによると、そもそも文章が書けておらず、この本を罵倒するレビューを書いている者の方がよっぽど豊かな日本語能力があるのだという。

僕がただ不思議なのは、そんなにひどい本ならば、なぜ何万部も売れたのだろうかということだった。Amazonレビューの意見では、小説読者の質が下がっているから、こんなものが売れるのだということだった。実につまらない意見で、そんな老人の繰り言のようなことを書いていて楽しいのだろうかと思う(もちろん彼らは楽しいのである)。そういう意見は単に書き手自身が作品を否定しただけであって、結局この本が多くの人に支持された理由について何がしかの理解をもたらすわけではない。もちろん一般読者が、自分が何か有益な思いをできなかったことを理由にして、ひどい作品だと切って捨てることはあるだろう。しかしそれだけなのであれば、彼らがやっていることとは、この本に感動して「私は面白かったです」と舌足らずに述べる少数のレビューと変わらない。感動した者たちを馬鹿呼ばわりできるのには及ばない。それどころか「こんなものに泣ける奴は愚かだ」と言う人は、結局書物に泣くことを期待するという点には半ば同意してしまっている。そして、この本がなぜ支持されるのか、一体何を描いているのかという疑問はなお残るのだ。それで僕は、文庫をひとつ買い求めて、読んでみることにした。

たしかにひどい本である。この文庫の全く何がひどいと言って、とにかく解説がひどすぎる。解説によると、この本の作者は出版不況を変えるために自費出版から現れたヒーローなのだという。それどころか、どうやら自費出版を除く既存の出版システムでは、この不況を打破することはできないのだと言っているようだ。これにはたいへん驚いた。今どき、フィクションをめぐる状況において同人活動が無視できなくなっているというのなら、いささか見飽きた類の意見だが、まだ分かる。既存の作り手たちがマーケットの動向を読めなくなっているという意見だけなら、多くの人が首肯する類のものだろう。しかしこの解説が言っているのは同人シーンのことなんかではない。我々は自費出版に賭けるしかないのだという。自費出版については、どちらかというと様々な問題があると書かれたものを僕はよく見かけるから、これをそのまま認めるわけにはいかなかった。そもそも、その解説は新人発掘と流通の仕組みについての話であって、作品がどのように優れているかとか、何が書かれているのかということではないのだ。結びの部分で、ほとんど余談のように、命を賭けた鬼ごっこという非日常的な設定に現実世界と同じ不条理さがあるから読者の共感を得たのだ、みたいなことを書いているが、現代社会の不条理をフィクションから感じるという話を今さらしたいのであれば、20世紀にも不条理小説がいろいろあるから読めばいいのではないだろうか。結局この解説は、作品について大したことを理解させてはくれない。暴動のようにつまらないぞと叫び続けるレビューの方が、ただ惨状として残される。

この文庫のカバーに書かれた呼び込み文には、さりげなく「ベストセラーの〈改訂版〉」と書かれている。出版社におなじみのやり方だと、文庫で加筆があったりした日には大々的にそのことを報じてセールスにつなげようとするものだが、ここで〈改訂版〉の文字はたった一個所、本当にささやかにしか書かれていない。だからまあ、この「改訂」は誇るべき事ではなくて、文章としてまずいところを直したという意味なのかもしれない。実際、文庫の方はそこまでの悪文とも思わなかった。別段うまいわけではないが、もっとひどい文章ならインターネット上にもたくさんあるし、もちろん商業出版されたものにだってある。僕はひどいと言われる単行本のほうを読んではいないので、それが僕に与えられたこの本だった。しかしそもそも本当の理想を言うなら、小説の善し悪しについて文章能力を認められるかどうかで判断すべきではないのだろう。

さて、話の筋に矛盾があるとか突飛であるとか、不合理な展開があるという向きに、僕はなぜそんなことを思うのか不思議である。この物語の最初のページ、「西暦3000年」という設定が述べられた時点で、読者はまあ、これがほとんど童話のような、ファンタジーノベルだと思ってもいいと思ったからだ。「西暦3000年に”佐藤”という性を持つ者が500万人を超えた」という導入部は荒唐無稽だと言ってもいい。しかしそこからはまず数字のインフレーション、過剰さを受け取るべきなのであって、これはハードSFが開始されるという合図ではないし、もちろんリアリズム小説を期待するべきでもない。

したがって、「西暦3000年なのに町並みの描写が現代と変わらないのがおかしい」などと言うのはこの冒頭を読み誤っている。そんなことが問題ではないのだ。このインフレーションについて通常ならざるものを感じるならば、それがリアリズムに則っていないという安易な指摘に留まってはいけない。それではこの作者の何が真に異常と呼べるのか分からなくなってしまう。また「佐藤探知機」などという機械が登場するからといって、それがすなわち失笑に値するわけではない。世の中には「警官殺し機」とか「心臓抜き」という道具が登場する小説だってあるだろう。

そう、たしかにこの作品には奇怪なところがある。不気味な色を湛えている。僕が本当にちょっと面白いなと思ったのはそこで、この作品には「西暦3000年」のような超然としたイメージと、「佐藤」という凡庸なイメージをこんなふうな乱暴なやり方で結びつけてしまうようなところが全編を通してある。そこではリアリズムの構築が放棄されているというよりも、従来的なリアリズムの感覚がこの作者にはないと言える。西暦3000年という漠然とした超未来と、「十三」などというひどく卑近な地名が混在したところで、この作品の気味の悪さは生まれてくる。

個人的に興味深かったのは舞台が「王国」であり、これがひどくステロタイプな絶対王政のイメージでもって描かれることだった。王は宮殿に住み、玉座に座り、クラシック音楽を聴き、ワインを飲んでいる。絶対王政どころではないかもしれない。時は西暦3000年であり、かつ現代日本的な日常を描きながらも、作者は権力というものをRPGによくあるような紋切り型のハイファンタジー的な意匠でもってイメージしてしまうのだ。日常が存続し、家庭があり、学校があり、会社組織がある一方で、権力は複雑なやり方で支配を維持しているとは考えず、いきなりRPGになってしまう。管理型の権力を想像するどころか、独裁者のようでありながらこれはビッグ・ブラザーとも違う。民衆と権力は関係づけられないまま、そこにはただ支配のイメージだけがある。こういう想像力は若い書き手と言っていい作者の現実認識がよく出ているようで面白かった。また規則的に挿入される「○月○日、○曜日、午後十一時、”リアル鬼ごっこ”○日目……スタート」などというフレーズもゲーム的なところからの借り物であり、律儀に繰り返されるその薄気味の悪さはちょっと見ものである。この作品はある倫理観に沿って書かれており、それはおそらく、リアル鬼ごっこというゲーム自体の存在をエンタテインメントの上で否定していないし、何万人が虐殺されようがかまわないようなものなのだ。そこに違和感を感じた人がこのような書き方を悪趣味だと言うならば、たしかにその人にとってそうだと言っていいだろう。しかし僕はこのように現実を認識して、こういう小説を書いてしまう若い書き手がいるということに、そして今やこれがアウトサイダーなものだと言うことすらできないかもしれない現実に、計り知れないものを見たという快感を感じてしまう。

2009.04.02 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [文章] [ゲーム

ユリイカ 第41巻第4号―詩と批評 (41)

年明けから気にくわないことが多く、仕舞いには何だか気が滅入って寝込んだりしていたが、なぜか2月の末くらいから急に書くものが増えてそれどころではなくなった。毎日「リラックスしつつ昏睡するほど酒を飲みたい」と思いながら1カ月くらい仕事している。

寄稿して、近日発売されそうなものをまとめて書こうかと思ったけど、やめだ。そんな箇条書きのようなものはここに全くいらない。だからまず27日に発売の「ユリイカ」4月号でRPGについて書せていただいたことについて書く。ここで僕は何となくドラクエの話をしているようだが、実は原稿を書きながら山下章の「電脳遊技考」をずっと読んでいて、本当はドラクエ以前の8ビットパソコンにおけるRPGのことをずっと考えていた。この本はとてもいい本だが、同時に90年代初頭という時代にゲームというものがどういう進化を求められていたのか、その限界がよく現れている。しかし、それも含めていい本だ。愛すべき本だ。

限界というのは強く物語を求めるようになったということで、原稿でも触れたけど、そのことは日本のRPGの方向性を決めた。

仕事の合間に、「ユリイカ」の掲載誌をちょっとめくりながら、ぼんやりと考えた。もちろん僕は、中田健太郎さんの書かれている、「ゲーム性」を旗印にしてゲームにおける物語性を批判する向きについて念頭におきながら原稿を書いたわけだ。そしてアンディー・メンテの泉和良さんも書いてらっしゃるゲームファンたちの不毛な覇権争いのことも。それで僕は、そうか、自分はインターネットの言説のありように批判的なのだなと思った。

思えば「ユリイカ」では2月号にも寄稿させていただいた。それは水村美苗「日本語が亡びるとき」についての文章で、やっぱり僕は同じだ。僕が書いたのはインターネットなどの言説をまず見聞して、それにあるていど横槍を入れるようなことを謀っているのだ。結局はそうか。そうやって、知らず僕は広くない読者を選んでしまっているかもしれない。これはけっこうへこむ。

それはともかくとして、もちろん、ネットの気持ちをあおり立てるような、ネット批判のような文章を書いたわけではない。

いや、そもそも今の書き方が誤った。媒体としてネットを批判するなどということ自体がおかしい。

インターネットはシステム上で人々をいったん横並びにする。ときどきそれは美点であると言われる。しかし、その美点を賞賛する人が「だからインターネットには従来のメディアよりもずっと優れて価値があるのだ」みたいなことを言ったりする。

まず僕が言いたいのは、そうではないだろう、ということだ。ネットに書かれたものに、ほかの媒体に持ち出せない価値があるのは当たり前で、ネットに書くということを意識する書き手ならば、そのことを最大限に利用するべきですらある。しかし、ネットに書かれたものに価値があるということと、ネット以外のメディアに価値がないということは、全く違う。当たり前のことだ。

横並びのシステムに乗っていて、今や等価にものを見られるようになったと言いながら、そのシステム自体は特権化できるという。そうして、やっていることは既存の価値を再強化したり、糾弾するようなことなのだ。どうしても不思議に感じる。僕がおかしいのだろうか。

あるいはメディアリテラシーということを言う人がいて、マスメディアについて批判的な読解を試みることだと解釈をしている。これは何というか、まあ、僕のちっぽけなリテラシーを最大限に働かせて言えば、いろんな意味でアメリカの思潮の流れがあって生まれてきているなと思わせるのだが、しかしこの思想に本当に深く感じ入ったなら、我々はマスメディアにも、インターネットにも、それぞれ価値を見い出して、両方を乗りこなすべきだろう。だいたい、その方がカッコいい。

ネットに書かれたものに価値があるということと、ネット以外のメディアに価値がないということは、全く違う。当たり前のことなのだ。ネットにだけ価値を見いだすのは楽ではある。

断っておくと、既存のメディアが滅びようとしているからそういう危機感で、ネット警戒論を述べているわけではない。だいたいそういう危機感は、ネットが覇権を握る時代が来るのだ、という考え方にやはり感化されている。既存のメディアは、(超長期的にはともかくだけど)衰退はしても滅びたりはしないだろう。

そう言うと、僕はたまたま紙媒体の仕事をしているからそういう楽観主義に胡座をかいていると思われるかもしれない。そうではない。違うのだ。もう、そういうことではないのだ。むしろ、滅びた方が、根絶やしになって全員が一箇所に流れられた方が、どれほどに話は簡単だろうか。ネットの横並びのシステムは、たしかにそういうあらゆるものが横並びになる時代を象徴しているのだ。だからこそ、ネットがすべてのメディアに取って代わることはなくなってしまったのかもしれない。覇権を争うのではない価値観は、たしかに必要とされている。

「日本語が亡びるとき」について文章を書きながら、僕は自分の文章が少なくとも水村美苗には届かないと自覚して悲しかった。どれほどネット的な文章が、あるいはネットが、あるいは携帯小説が、あるいは最近の小説が、優れている、価値があるといったって、日本語は亡びたりしないと叫んだって、言葉というのはそもそも変わっていくものなのだという話をしたって、だめなのである。言葉が届かない。どうしたらその価値観を横並びの中で共有できるのだろうか。自分だから無理なのだろうか。

だがそんなことを書き続けるのだ。

2009.03.27 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [文章

相対性理論「ハイファイ新書」

ずいぶん急な話で申し訳ないのですが、告知があります。本日2009年1月25日(日)深夜25時30分よりTBSラジオの「文化系トークラジオ Life」にゲストで出演します。レギュラーの出演者はcharlieこと鈴木謙介さん、佐々木敦さん、津田大介さん、斎藤哲也さんです。津田さんにお会いするのは1年くらいぶりだろうか。テーマは「未知との遭遇2009」となっていて、僕はこのブログの内容に似通った話をするかもしれません。テーマや出演者にご興味を持たれた方、良かったら聴いてみてください。放送後に、ポッドキャスト配信によるダウンロードもたぶんできると思います。詳しくは番組ホームページでどうぞ。

と、大事な用があるときに限って風邪をひく。熱が出て喉が痛く、身体がだるい。最悪だ。

あと相対性理論「ハイファイ新書」も発売日には聴いていたのに、ここに書こうと思いながらこんなに時間が経ってしまった。聴いて、まず最初に思ったのはTHE・天久聖一 with ギ・おならすいこみ隊「モテたくて…」(日射病撲滅キャンペーンソング)に似ているということだ。冗談ではなく決然とその話を書こうと思いながら延び延びになっていたら、「Waste Of Pops 80s-90s」さんも「人生と同質のセンス」と書かれていたので、あながち間違っていないと思う。では何が「モテたくて…」に似ていると思ったのか。

「ハイファイ新書」は「シフォン主義」よりももっと明確に歌詞とボーカルが「かわいいもの」「女性的なもの」に向けられていて、歌い方もやけに艶っぽい、少女のエロチックさみたいなものを強調した歌い回しが多い。呼吸の使い方もエロい感じだ。例えば「バーモント・キッス」における「世界征服やめた」の「征」にかかる声。「学級崩壊」の「崩」の表現。「ルネサンス」での「ルネサンスでいちにの算数」と言う気取った声。あるいは「さわやか会社員」における「さ」もそうである。そんなふうに、どこがそうだと指摘できる程度にはクセのついた歌い方をしている。そのようにしか歌うことができないのか、意図してそう歌っているのか、いずれにしてもそういう表現を「シフォン主義」よりも好んでトラックに残している。

しかし面白いのは、この不思議少女的なエロさを表現する歌唱が、歌詞によって表現されるある情動を表現するためには全然使われていないというところだと思う。おそらく今、相対性理論がやろうとしているのはそういうことで、それが今このバンドの核になっている。楽曲として「かわいいもの」「少女性」「切なさ」などを表現するための要素で構成されているにもかかわらず、実際には彼らの歌は具体的なエモーションを欠いている。切なそうな言葉が歌詞に頻出していても、指し示している情景を持っていない。「優しさだけじゃ恋は辛い」と言いながら、その言葉はシリアスな実感として述べられているのではなく、我々が「切なさ」を響かせるために選ばれていると言った方が正しい。おそらくこのバンドが人気を博しているのはそこで、我々が彼らの歌に刺激されて抱く感情は、歌詞から与えられる漠然としたイメージを我々自身が補って成り立っていると言っていい。我々は想像の中で我々自身の相対性理論を膨らませることができることに面白さを感じている。

そこが、僕が「モテたくて…」に似ていると思ったところだ。あの曲で天久聖一が「ガリバー!」とか「ピッチャー!」と叫ぶとき、そこには実体としてのガリバーとかピッチャーがいるわけではない(当たり前だ)。あれは「デカいもの」「カッコいいもの」のスゴさを強い表現力でもって喚起させるためだけに間投詞的に投げかけられた言葉なのだ。天久聖一のマチズモと相対性理論の少女性は、いみじくも対になって同じことをやろうとしている。

上記のようなコンセプトは、アルバム全編を通してよく表現されていた。サウンド的にも、「Waste Of Pops 80s-90s」さんも指摘していたが、前作にあったようなUKギターロックの要素は消えて、ポストパンク期のポップミュージックみたいな調子で(ジャンル選択のエキゾチックな方向性も含めてそう思った)よくまとめられていると思う。トータルアルバムとしていい出来だ。ただ、その代わり何がどう結合して噴出しているのか分からないような面白さがあった「シフォン主義」とは違う魅力を伝えるアルバムになっているのは間違いないだろう。「シフォン主義」を想像しているとコンサバティブな印象を受ける内容かもしれない。また、ばるぼらさんが「CDの完成度のわりにはライブが上手くない」と書かれていたが、最近は録音物を踏まえた上で、演奏の上手い下手はともかくとして身体性を表現するミュージシャンが注目される傾向にあるので、相対性理論がそうでないのならちょっと変わっているなと思う。そつなく(または、そつないように振る舞いながら)完成度の高い録音物を作りつつライブが下手なのならば、懐かしい渋谷系のミュージシャンの一部が持っていたレコーディング偏重っぽさがあるのだろうか。まあ僕はライブを見ていないので、実際がどうであるかは分からない。

2009.01.25 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [音楽

«  | INDEX |  »


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。