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ORANGE RANGE「はい!もしもし…夏です!」

最近はORANGE RANGEのアルバム「裏SHOPPING」に収められた「はい!もしもし…夏です!」ばかりを聴いている。

この曲を知ったのはTSUTAYAに行ったときに店内でかかっていたからだ。TSUTAYAの店内放送は、トップアーティストであるORANGE RANGEの新譜に収められた、南明奈というそれなりにキャッチーな人物がボーカルを務めている曲ということでこの曲をかけているに違いない。実際のところ「裏SHOPPING」というのは実質的にレアトラック集みたいな扱いのベストアルバムであるし、そもそもORANGE RANEGEというグループのポピュラリティも以前に比べて翳っていると言わざるを得ない。しかしそれでもTSUTAYAで曲がかかるような立場のアーティストとしてあるわけで、そのようにグループとして微妙な時期にあるからこそ、僕のようにこれまでORANGE RANGEなどろくに聴こうとも思わなかったリスナーが惹かれてしまうような歪な楽曲が紛れ込んでいるのだと思う。つまり言ってしまえばこの曲は、いろいろとひどい。

そもそもこの曲は2005年に発売されたシングルのカップリングだった。ここでMP3を聴ける。この曲は簡単に言うと「電波ソングを意図した電波ソング」として作られている。いかにもベタベタなファンシーさをもった言葉をデタラメに並べた歌詞を「沙織」という女の子にヘタクソなウィスパーボイスで歌わせるというもので、ヴァネッサ・パラディのような「いかにもフレンチポップです」みたいなトラックが付けられている。つまりこれは、ORANGE RANGEらしいのであろう冷笑趣味を持った、言ってみれば諧謔に満ちた曲だったのである。

それだけでは面白くはなかった。しかし「裏SHOPPING」において、その諧謔趣味は禍々しく歪められて何だかよく分からないものになっている。まずトラックがリミックスアルバム「Squeezed」に収められたバージョンであり、これはやけにチープなエレクトロ風味に変えられている。ここにMP3があるが、しかし南明奈のバージョンはこのリミックスバージョンとはさらに違って、歌が非常に適当なのだ。リミックスではウィスパーボイス風の木訥としたボーカルの感じがエレクトロの楽曲にそこそこマッチさせられているが、南明奈は元々自分に与えられたものではない楽曲だからなのか何なのか分からないが、何も考えずにただ明朗と歌を歌っている。リリースから3年を経て原曲が元々意図したところが忘れかけられているところで、換骨奪胎のように曲の要素がザクザクと乱暴に差し替えられているわけで、ここではもはや最初に何をやりたかった曲なのかはかなり伝わりにくくなっている。

これが素晴らしい。結果としてこの曲は、もう「電波ソングを作ってみました」というような諧謔趣味などみじんも感じさせない、真の意味で単なる電波ソングになっている。「面白いだろ」と目配せしながら作った原曲なんかよりずっといい。こんな妙な曲をORANGE RANGEという人気アーティストのアルバムで聴けてしまうのもまた非常にいい。調べてみると、このような何かが壊れてきてしまったような感じはこの曲だけでなくORANGE RANGE自体に表れているようだ。「おしゃれ番長」のカッコいいのかオシャレなのか首をひねってしまう微妙さなどは、関口誠人が脱退する直前のCCBにおける「ないものねだりのI Want You」のようなノリきれないモンド感があって非常にいい。

ただ1つ問題なのは、こういう書き方をしてしていると、まるでこれは笑いものにすべきものだというように読めてしまうことだ。そうではない。バッドテイストだから好きだというと、バッドであると言うことになる。そうではないのだ。僕はこういうキメラのようなものこそポップスの神髄だと真剣に考えていて、どうしようもなく愛してしまう。ただそれだけのことを伝えるのが、すごく難しい。

2008.12.18 | | コメント(10) | トラックバック(0) | [音楽

428 ~封鎖された渋谷で~

すっかり遅くなったが、おかげさまでミニコミ「Hang Reviewers High」は文学フリマにおいて完売しました。ありがとうございます。さらに、更新しないでいるうちにLilmagさんで通販が始まったりサクッと売り切れたり再入荷したりまた売り切れたりしています。どうやら全部で200冊くらいお買い上げ頂いたのだろうか。ありがたいことです。再版の予定はないそうで、しかももう売り切れ寸前です。興味のある方はよかったらお早めに。

さてLilmag blogによるとこのブログは「忙しい」ばっかり書いているとの評判だが、僕もミニコミを読んでやはりそう思った。あとどうも西島大介君と酒を飲んでばかりいるようだ。が、しかし、言わせてもらうと今まさに今年最大の忙しさを迎えている。本当に忙しい。

忙しい中で428をプレイしていた。ほとんど徹夜のようにして一気にやり終えた。僕はこのゲームの発売こそを、10年間待っていたのだと言っていいだろう。このゲームは全く「街」の正当な後継作としてふさわしい。双生児、渋谷署の刑事、ダイエットなど「街」を連想させるに十分な要素がちりばめられているし、大沢シナリオのデカダンな雰囲気の演出だって前作の「シュレディンガーの手」を思わせるものだ。さらにTIPSの中には「街」のオマージュがこれでもかというほど盛り込まれている。権利の関係なのか何なのか、今作のプロモーションで「街」というタイトルは全く隠されているようだが、しかし作中では十分なファンサービスが行われている。これは素直にうれしい。

また「街」からゲームシステムがほとんど変更されていないことが喜ばしい。より分かりやすくするために「ザッピング」という言葉を「ジャンプ」と言い換えたりしてはいるものの、チュンソフトはついに「街」のゲームシステムを否定しなかった。彼らは10年を経て、この面白いシステムそのものに間違いはなかったのだということを確認し、自信を持って再度リリースした。これはうつくしいことだ。

彼らはシステムを改変するのではなく、その運用を変えたと言うべきだろう。例えばあるキャラクターの物語が進行停止して、別のキャラクターの物語を進行させねばならないという状況は前作にも見られたが、今作ではそれに「KEEP OUT」という分かりやすい名称が付加され、ゲームの進行において鍵となる要素として強く打ち出されている。この変更は、単に前作にもあった要素に名前が付けられたというだけにとどまらない。「KEEP OUT」は、前作以上に、複数の物語をどの順序で読み進めるのかをプレイヤーに強制するように働いていると見るべきである。それは前作と今作が、システムが同じでありながら、全く違った考え方で作られているということに関連している。

「街」は複数主人公による並列した物語がごく些細なポイントでのみ繋がりあっているという物語だった。そして、あのゲームは各主人公同士が没交渉であることに徹底的に拘っていた。その頑なさはほとんどパラノイアックと言ってもいいもので、そういう偶然の連鎖に感じられる面白さをこのシステムによって表現しようとしていた。しかし428は複数の主人公が複数の物語を語るのではなく、1つの物語を複数の人物の視点から読むことのできるゲームだ。言ってみれば従来的な視点切り替え型ノベルゲームの仕様に近い。しかしチュンソフトが自信を持って変更を加えなかったマルチフラグ/ザッピングシステムの上で繰り広げられる視点斬り合え型ノベルはやけに面白い。ここには、こんなによくできたシステムなのだから、それをそのまま使ってウェルメイドなサスペンス劇をやろうという強い意志が感じられる。メジャー感のある物語をそのまま乗せてしまうということに、チュンソフトとセガは腐心している。立派なことだと思う。

そしてボーナスシナリオを奈須きのこが書いている。「弟切草」から始まったサウンドノベルが「雫」によってビジュアルノベルへと派生し、そして今1つの作品の上で再び出会っているのだから、これは単純に言って歴史的なことである。しかしそれ以上に注目すべきだと思うのはこのシナリオの作風だ。奈須きのこはアウェイ感に流されてお茶を濁すようなものを書いたりしなかった。彼ならではの、絶対にチュンソフトのサウンドノベルではあり得ない熱いバトルものを書いているのだ。ビジュアルノベルとTYPE-MOONを背負って矜持を貫く姿勢が本当にカッコいい。そして、質を異にしてありながらも本編とボーナスシナリオの両方においてメジャー感を目指す意志は共有されているのだ。ゲームにはこれだけの物語が描けるのだということを、妥協なしに主張している。素晴らしい。

2008.12.11 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [文章

ミニコミ「Hang Reviewers High」

このブログ「Hang Reviewers High」の記事を一部抽出してまとめたミニコミ誌をばるぼらさんが作ってくださった。

今後どのような流通に乗って販売されるのか全く知らないが、さしあたって11月9日の文学フリマで売られることになった。いずみのさんの「ピアノ・ファイア・パブリッシング」のブースにて委託販売させていただきます。ブースの位置はB-33。ちなみにいずみのさんは「漫画をめくる冒険」の別冊を出される予定で、これは表紙を西島大介君が描いている。

さてミニコミ「Hang Reviewers High」だが、詳細は以下のようなものらしい。

書名:『Hang Reviewers High』
著者:ソメル
デザイン:戸塚泰雄(nu)
その他全部:ばるぼら
サイズ:A5 x 72p
価格:500円
売り場:文学フリマ会場二階 B-33

ばるぼらさんが編集してくださって、しかもミニコミ誌「nu」の発行・編集、あるいは「エクス・ポ」「フリーターズ・フリー」などのデザインでおなじみの戸塚泰雄さんがデザインしてくださるというのはすごいことだ。とてもありがたいことで、お二方に感謝するのはもちろんだが、しかしこの本が面白いのは、僕がこのお二人とともに積極的に本作りを行ったわけではないところだ。とか書くと何かずいぶん尊大な著者みたいだな。でもようするに、このミニコミはちょっとだけ変わった経緯で作られている。

ばるぼらさんから、このブログの内容をミニコミにしたいというメールをもらったのはちょうど1年ほど前、2007年の10月末のことだった。メールの内容はネットの文章を本にする小部数のミニコミレーベルを作りたい、その第一弾として僕のブログを選びたい、ということだった。そして、そのミニコミは以下のような条件のもとで作りたい、という。

・収録する原稿の選定・並び、デザインなどはすべてばるぼらさんが行い、原則として著者は意見しない
・文章内容は極力ウェブのままで収録する
・印税なし。著者には刷り部数の10%を現物支給する

これはすごく面白い企画だと思った。要するに彼は、ネット上のテキストを、書いた僕の意向を極力排除して、乱暴な言い方をすれば僕の書いた文章を「勝手に使って」本を作ろうというのだ。その姿勢は、スクレイピングだのマッシュアップだのといった言葉によって、何だか今やすっかりネットのお家芸であるかのように言われている種類のもので、つまり彼がやろうとしていることはネットにとって「素材」としてしか見なされていない紙メディアの側から、逆にネットを「素材」として扱ってみせたものを作る試みであると言うこともできる。

しかし上記のような説明ではまだ、ばるぼらさんの意図を正確に伝えているとは言い難い。彼の意図は、もっと視野の広いことだと思う。彼はおそらく、このように自由な意志で素材を寄せ集めて一つの作品を作る手法は、別段ネットに特有のものなんかではない、ということを示そうとする意味もあってこのミニコミを企画しているはずだ。

昨今、我々が例えばYouTubeやニコニコ動画などでMAD動画を見て、素材を自由に利用して作られたコンテンツの面白さを感じるとき、「このような面白さはインターネットという場所、あるいは情報技術の活用ないしはデジタルメディアであることを条件に成り立っている」と勘違いしてしまうことがままあるだろう。しかしそれは間違っている。そのような考え方は、単にネットというメディア自体が面白いのだという短絡によって、我々がそこで何を面白いと感じているのかを見落とすことにつながっている。

では、そこで我々が感じている面白さとは何か。もちろんそれは、編集した者が素材に意味を与え、一つの文脈を立ち上がらせるということの面白さだ。「膨大な素材が他人によって選出され、制作者の意図を離れて編集される」ということ自体が面白いのだ。ヒップホップ以降に台頭したサンプリングミュージックが面白いように、またバロウズが実践したカットアップによる文学が面白いように、まさにそのようにMAD動画は面白いのである。そしてまた雑誌も、同様に面白いのである。むしろ雑誌やミニコミなどはそのような面白さを持ったメディアの最たるものとしてある。たしかに、ネットやデジタルメディアはそのような面白い作品を一般人が手軽に作ることを可能にしたが、そのことに拘泥してしまうと、紙メディアに同じことが可能であるということ、我々が愛するのはその思想と手法でありメディアの形態ではないのだということ、そしてまたネットと紙ではその「面白さ」のあり方がどう違うのかということが、安易に見落とされるはずだ。

そして僕は、メディアを問わず、そういうやり方で作られたモノが大好きだ。サンプリングとか剽窃とかマッシュアップとかミクスチャーなどという考え方そのものをほとんど偏愛している。そういうモノが大好きだ。だから僕は、即座にばるぼらさんの申し出に快諾して、あとは制作について一切口を挾まなかったのである。好き勝手に、自由に、僕の意志なんて介在しないように、作ってほしかったのである。そういうことがしたいという思想に共感したのである。

ではミニコミ「Hang Reviewers High」において、そのような編集の力による「面白さ」はどのように出ているだろうか。ばるぼらさんからメールをいただいたとき、彼が「こういう内容にしたい」という目次を見せてくれた。それは当然のことながら、このブログから記事を抽出して並び替えたもので、つまりすべて僕が書いたテキストなのだが、それを見て僕は唸った。やられたなあと思った。その目次は、それ自体がばるぼらさんの編集力の高さを伺わせるもので、一つの本としてはっきりとした主題の提示を持ったものになっていたのだ。

主題。メインテーマ。たびたび書いていることだが、僕はこのブログ「Hang Reviewers High」にトータルとして一つの意味を持たせようとしている。一つ一つの記事が単に個別の作品のレビューのようになってしまうブログという場所で、それでも一つの主題を持ったひとつなぎの読み物を作ろうと躍起になっているのだ。「Hang Reviewers High」というタイトルそのものや、「イカれたDJどもを縛り首にしろ 連中がタレ流している音楽なんて ぼくの人生に何の関係もない」という文句も、その主題というか含意というかメタメッセージのようなものを象徴している。しかしブログという形式は、今書いたように一つ一つの記事が個別のものとなってしまいやすいので、そのような背景にあるメッセージが届きにくい。だから、このブログではその主題にかかわるものは個別に見ると曖昧で謎めいて見えるようになっているし、だからこそこのブログの最後に書かれるテキストではそれを謎解きのようにメタ的に解説して終わる予定である。

ところがばるぼらさんの作った目次は、このブログの主題を完璧に理解した上で、それを軽々とまとめ直してみせたものだった。これには驚いた。膨大なバラバラのテキストを一つの主題に基づいてまとめ、かつ読むに耐えさせること。紙メディアがネットに対して持つ最大の優位とはそれであり、それが編集という仕事の最も面白い部分だ。逆に言えばネットはその点において紙よりも圧倒的に劣っている。レビュー主体のブログに主題を持たせるために苦心しなければならないということ自体が、まさにそれを証明している。ばるぼらさんはその点を十分に理解して、このブログの文章を一冊の本にまとめるということをやってみせたのだ。紙メディアは、一つの読み物としてのトータリティや主題だのを、ブログよりも明快に、強固に作り出すことができる。彼がまとめた本の通りに読めば、間違いなくこのブログの主題がみるみる浮き上がってくるはずだ。自分の書いたテキストなのに、他人にまとめられてから「面白い」とか思ってしまった。ネットでのオリジナルの書き手としてこれは少し悔しい。しかしもちろん、すごくうれしい。僕がこのブログでやろうとしたことを彼は理解して、それに対する批評としてミニコミの目次は成り立っていたのだ。

逆に言えば、このブログの主題がなんなのか、このミニコミを読めば一発で分かる気がする。というか、ばるぼらさんがブログに揚げている「前文」の内容もかなりネタバレっぽいというか、別に隠している訳じゃないが、とにかくこれを読めばなぜ僕がこんなレビュー形式のブログをやっているのか、それにどういうメタメッセージを込めようとしているのか、ということは分かりそうだし、どんなミニコミなのかという内容も分かりそうに思う。このばるぼらさんの文章もすごくって、「爆撃」と書かれているのが素晴らしい。この言葉は、このブログを僕が書くに際して「大量の弾を撃ちまくることが必要だ」と決めたのと呼応している。すべてをここに書くことはまだないが、ものすごく簡単に言えば、このブログは、この本は、「今という時代に、主にネットで、作品について意見を述べるということ」についての内容になっているはずだ。もちろん僕は「勝手に作られた」著者なので、ほんとにそんな本になっているのか、全く知らない。デザインも見ていないしゲラのチェックなんて当然していない。ばるぼらさんのところにある画像が表紙なのだろうか。分からない。しかし分からないのがいい。僕が知っているのは目次だけで、ひょっとすれば後からばるぼらさんが目次を作り替えた可能性すらあるけれど、しかしそれすら分からない。だが、少なくとも僕が見た目次では、僕がここで書きたかったことが書かれた本みたいだ(自分で書いたんだから当たり前だけど)。たぶん読むと、僕が早くここに現出させたい「主題」が感じられるはずだ。そんなことが書いてある本、読んでみたい。そんな本、面白そうだもん。自分が。ようするにこの本は、著者ではなくただ読者として、すごく楽しみだ。

というわけで編集とか紙とネットとかいうことも考えられる面白い本である上に、全く盛況を極めているかのような批評とか評論とかレビューとかいうものが退屈でしかたがないということを(もちろん)ザ・スミスばりに標榜しているはずの本なので、僕が言うのもホントに変な話だが、おすすめです。11月9日の秋葉原、文学フリマでぜひお買い上げください。僕も当日行かないと完成した本を見ることすらかなわないので、必ず行きます。72ページ1冊500円は「安い」といずみのさんに書いていただいているが、僕はミニコミの値段の相場とかをよく知らないし自分で作っていないので安いかどうかも分からないけど、安いと言っていただいているのでそのへんもバリューとして付け加えておこう。疎くて分からないが、安いほうがいいものなのだろうか?あとオマケだが、一応僕は「あとがき」を書いているが、書いた内容はこのミニコミに対する想像に基づいたレビューのようなもの、ようするに上記に書いたようなこととあまり変わらないので、そんな「書き下ろしのテキスト」を期待して対価を払う必要はない。「ネットでも読めるもの」が編集された姿を、ばるぼらさんと戸塚さんの仕事を、ぜひお買い求めください。あと、最後になったけど、同じくいずみのさんのブースで吉田アミさんが配布されるフリーペーパーに、僕が「ニーツオルグ」というサイトをやっていたときに書いた「めぞん一刻」についてのテキストを掲載していただくそうです。どんなのが載るかを見せていただいたんだけど、自分が書いたものながら、かなり読みにくかった。こんな文章をアップするなんて迷惑な奴だなと思った。さやわかめ。あとついでにもうひとつオマケだが、ばるぼらさんによると

ちなみに本はソメル名義になっています。
さやわかのさの字もありません。

とのことである。それでいい! と思った。たしかに、ネット上で、このブログで、書かれたものなので、ぜひそうあってほしい。

2008.11.04 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [文章

天元突破グレンラガン

「天元突破グレンラガン」というアニメは、放映中に飛び飛びで見ていたものの、全話を通して見たことがなかった。ここ最近引きこもっていろいろな作品を鑑賞している間にようやく通して見ることができ、やはりこれは大変な作品だと思ったので、ここで何か書いてみたい。

ガイナックスというアニメ制作会社がロボットアニメを作るということは、あらかじめ、相当な苦労を伴うものとしてあるのは確かだ。彼らの作品には「トップをねらえ!」があり「新世紀エヴァンゲリオン」があり「トップをねらえ2!」があるわけで、つまり彼らは原初から「ロボットアニメを作る」ということ自体に批評的な目を持った作品を作り続けており、新たに作るにしても当然その内容はメタ的な視点を十分に踏まえた上である必要があるのだ。そしてガイナックスにおけるすべてのロボットアニメを踏まえるということは、日本のロボットアニメ史全体を踏まえるということに他ならない。自己に向き合いながら、過去と対話しながら、彼らは「新しいロボットアニメ」を提示していかねばならないのだ。

では「天元突破グレンラガン」は何をやっているのか。大枠では、この作品は全四部からなるその物語構成によって日本のロボットアニメ史を総決算しつつ更なる前進を目指そうとしていると言えるだろう。それを指摘できる糸口としてあるのは、やはりまずは第一部におけるカミナというキャラクターと、その死だろう。

カミナというキャラクターは、一体何を象徴する人物だろうか。彼は主人公であるシモンの義兄弟と名乗り、作中で「アニキ」と呼ばれる。しかし、それはシモンを社会化したり彼に生き方、ロールモデルを与える父性的な存在という意味ではない。そう考えるなら間違いである。つまり彼は、例えば「機動戦士ガンダム」におけるアムロ・レイにとってのブライト・ノアであるとは言えないのだ。カミナはシモンに規範意識を徹底させたり社会化を促すことは一切なかった。むしろそのような規範意識を彼は嫌悪していた。第五話において、村長が村人に偽神を崇めさせることで維持されているアダイ村に対して彼が激しい嫌悪感を示すのはその表れである。彼は近代において人々が生きる寄る辺として抱いたイデオロギーを象徴する人物などではなく、「大きな物語」の象徴などではない。つまりこの物語はそういう文脈で語るようには作られていない。

要するにこの物語は、実存のあり方についてよりも、やはりあくまでロボットアニメというフィクションの歴史とそのあり方を象徴的に描いたものとして読み解かれるべきである。そして、その視点で眺めた場合にカミナとは誰なのかを考えるべきである。さすれば彼はもちろん、この作品がオマージュを捧げている「ゲッターロボ」に代表される、70年代の「王道の」ロボットアニメの象徴としてあるだろう。カミナは常に、当時のロボットアニメが「当然そうである」ように行動するキャラクターである。例えば彼が「シモン、アレをやるぞ」と言えばそれは当然「ロボットの合体」なのである。彼にとってロボットが合体して戦うということは疑問を差し挟む余地のない必然なのだ。そして彼は、機械の体をまるで肉体のように柔軟に駆って敵を打ち倒す。そこに複雑な論理は必要ない。カミナが牽引する「グレンラガン」の第一部とは、そのような「古き良き」ロボットアニメに対して忠実に描かれる。

ところが、第一部の最後でカミナは死んでしまい、そこで「古き良き」ロボットアニメは終わりを迎える。思えば第一部においてはこの物語にはほとんど「死」という現実が介入してこない。原則として「死」は存在しないか、うやむやにされている。敵ロボットを倒した後でも、コクピットから脱出した操縦士が逃げ帰る姿がたびたび描かれることで、この物語の活劇は明るく楽天的な形で維持され続けるのだ。

ところが、「まるで漫画のように」不死身の活劇を繰り広げ続けていたカミナが第八話で死んでしまうことで、この物語は「死」というリアリズムに直面してしまう。だからカミナの死に端を発して、第一部の終わりから第二部以降には敵キャラクターが爆死する姿もちゃんと描かれるようになるのだ。アニキのいないロボットアニメの中で「アニキならどうするのか」を考えて敵を倒そうとするシモンは、しかし「死」というリアリズムに縛られて残虐に敵を破壊することしかできないようになる。それは「新世紀エヴァンゲリオン」が突き当たった問題と根底を同じくするものであり、だから第九話冒頭の戦闘シーンなどは「エヴァ」の戦闘描写と非常に近い陰鬱さをたたえている。また第十話の「ダメだよ、オレはアニキにはなれない」という言葉は「自分たちはかつてのロボットアニメを作ることができない」という意味に他ならない。

だが物語はここで「かつてのロボットアニメを描けない」という自負を受け入れた上で前に進もうとする。カミナは第一話で、「お前じゃなくてオレを信じろ。お前の信じるオレを信じろ」と言い、次には「お前を信じるオレを信じろ」と言っていた。そして死の間際には「お前の信じるお前を信じろ」と言ったのだ。さらにニアは「シモンはアニキじゃない。シモンはシモンでいいと思います」と言う。シモンはニアとカミナの言葉をやがて理解し「自分の信じる」ロボットアニメの主人公となり、強大な敵を打ち倒すのだ。それが第二部のストーリーである。つまりこの物語は「エヴァ」の問題を作品の半ばにして超克していくのであり、それはこの時代にあって、もはや驚くべき事ですらないのかもしれない。

だからこの物語はそこで終わらずに、さらにリアリズムの問題を突きつけようとする。それが第三部以降の展開である。グレンラガンを量産化したロボットたちは俗に言う「リアルロボット」のようなリアリスティックなものになり、また敵の形状も「エヴァ」における使徒のように無機質な姿形をしたものになる。また第一部と第二部において戦いの場は常に荒野であり、それはかつてのロボットアニメや特撮ヒーローたちが主に荒野を戦場とし、あるいは市街地においても人気のない場所で戦ったことと同じようにされていた。しかしリアリズムがさらに強く意識される第三部において戦いの場は都市であり、そして敵を倒せば「巻き添えになって殺される一般市民」が現れる。このような描写は昨今のロボットアニメでは頻繁に見られるものであり、例えばごく最近の例では鬼頭莫宏「ぼくらの」にあった市街地における甚大な被害などが思い出される。第三部とは、リアリズムに縛られた現代のロボットアニメの世界そのものなのである。

この問題に対して、第二部において「ロボットアニメのヒーロー」を自覚したシモンは、被害者が出る前にグレンラガンで敵を殲滅してしまえばいいというふうに考えるのだが、それはリアリスティックなロボットアニメとは相容れない考え方であった。シモンは第二部で困難を乗り越えたように見えたが、結局彼はカミナが象徴していた「スーパーロボットもの」のヒーロー像を再帰的に採り入れることに成功しただけであり、戦争後に安定を目指す世界において彼は古い想像力を引きずったロートルに過ぎない。だから彼は戦闘にあたって都市破壊も辞さない乱暴な手段を当然のように行ってしまうが、その行動は現代のロボットアニメのリアリズムを象徴するキャラクターとなったロシウから「なぜそう楽な道を行く!」と批判されてしまう。単にスーパーヒーローが派手に戦い、「死」という問題を捨象した上で勝つという展開は、リアリズムにとっては安直なやり方、「楽な道」でしかないのだ。そして、物語中の民衆にもそれは受け入れられない。暴動を起こし、カミナの銅像を打ち倒そうとする民衆とは、ロボットアニメにリアリズムを求め、スーパーロボットによる勧善懲悪ばかりで事が済むことを許さない我々視聴者の姿に他ならない。

しかし、ロシウのリアリスティックな想像力は、結局すべての人類を救うことができない。ロシウは、シモンのやり方では世界を平和に導くことが出来ないと考えて、物語を主導する実権をシモンから奪い、新たな敵を倒すために様々な策を弄する。しかし彼は結局地球上の人間の半数も救うことができず、しかも「絶対的絶望を与える」ことを明言する最後の敵によって全滅を予告される。いかなる策も通じない「絶対的な絶望を与える」敵とは何だろうか。現実的な解法が一切通用しない相手、それはフィクションそのものだ。だからこそロシウは最後にはリアリスティックな解法を諦め、フィクショナルな解法を持ったシモンに物語の担い手を戻すことを選ばざるを得なくなる。そして、シモンは自らの想像力をどこまでも増大させながら最後の戦いに臨むのだ。最後の戦いは、敵の数が「無量大数」と表現されたり、存在確率を変動させるミサイルが出てきたり、銀河を掴んでぶん投げたりしてもうメチャメチャな展開である。敵の攻撃も、シモンや仲間達の想像力を逆手に取るようにして、想像可能ないくつもの可能世界(多元宇宙)の中に彼らを封じ込めたりする。これはもはや、フィクションの想像力そのものがぶつかり戦っているという感じになっていて、とにかく面白い。

最後にシモンたちは可能世界の中から「敵に打ち勝つ」という「自分たちの目指す世界」を選び取ることで勝利を掴む。かくしてこの物語は、70年代ロボットアニメの奔放な想像力からスタートし、それがいったん挫折し、しかし再帰的にそれを導入し直して、かつ最後にはあらゆる想像力の極限を突破するところで終焉する。ロボットアニメはもちろん、我々の想像力というものが果てしなく高みへと駆け上り続けるものだということを高らかに謳いあげる、これはとても素敵な物語だ。

2008.10.14 | | コメント(2) | トラックバック(0) | [アニメ

君が忘れていった水槽

アンディー・メンテのジスカルドこと泉和良さんについては、今号の「スタジオ・ボイス」誌にてインタビューさせていただいた。

そういえば、引きこもっていたせいで全く書けずにいたが、この前の号の「スタジオ・ボイス」で僕は宇野常寛「ゼロ年代の想像力」についての書評を書いている。興味がある方はバックナンバーなどで読んでいただければ幸いです。この本についてはもうずいぶんいろいろなところで書いているので特に今言うことはないが、「小説TRIPPER」の今号での東浩紀と宇野常寛の対談は、僕がWEBスナイパーの書評(前編後編)において書かせていただいた同書への疑問点とかなり近い部分を東さんが宇野さんに対して尋ねられていらっしゃるという興味深い内容なので同書に興味のある方は必読かと思う。

さて話は「スタジオ・ボイス」に戻るが、今号の特集は「ゲームを作ろう!-非ゲーム・クリエイターのための入門講座」というものであり、なかなか濃い内容の特集になっている。誌面からどこか懐かしい90年代のサブカルの香りがするのは、ゲームというメディアがまだその空気を残しているということなのだろうか。ちなみに僕の行った泉さんのインタビューの前ページには、ばるぼらさんによる神奈川電子技術研究所のインタビュー記事が掲載されていたりもする。

泉和良さんにも、今回は小説ではなくやはりアンディー・メンテについてを中心に、彼の「フリーウェアゲームスピリット」について語っていただいている。小学生の頃からMSXでゲームを作成し、地方の草の根BBSに毎日アップしていたというエピソードや、彼があの「MSX・FAN」の読者であり、そしてもちろんBio_100%やイタチョコシステムから大きな影響を受けた結果として今の活動があるというお話は、「マルチメディア」という言葉がまだ目新しかった90年代のゲームやコンピュータ文化、さらにはベーマガやMAX・FAN、POPCOMなどのような80年代の投稿ゲーム文化と今を繋ぐものとして読める、面白いものになったと思う。今号で僕は泉さんだけでなく「桃鉄」のさくまあきらさんにもインタビューを試みているのだが、こちらでも個人によるインディペンデントな活動としてのゲーム制作について興味深いお話をいただき、全体として才能を持った人物がアイデア一発で面白いことができてしまうパンク/ニューウェーブの精神が感じられる創作の可能性がまだゲームというフィールドにはあるという誌面になったように思えた。

それにしても泉和良さん、あるいはアンディー・メンテというサークルの立場を正しく説明するのはとても重要なことだろう。彼の活動は2000年以降の「いつものところ」や「TYPE-MOON」のような「同人ゲーム」、あるいはノベルゲームの盛況とはいささか趣を異にするものとして語られなければならず、またそうしなければ小説作家としての泉和良という人物が何をやろうとしているのかも分かりにくくなるはずだ。アンディー・メンテが今年発表した作品である「君が忘れていった水槽」はウィンドウを水槽に見立てて、そこで勝手に増殖や分裂、闘争を繰り返して成長や滅亡を繰り返すデジタルな生物の様子を眺めるというものだが、内容はもちろん、この作品は音楽がとにかく素晴らしい。ゲーム中では常時BGMが流れているのではなく、何かのタイミングで不意に一曲流れてはまた静寂が訪れる。そのふっと鳴り、ふっと終わるというどこか寂寞感の残る使われ方が非常に素晴らしいわけだが、しかしこの10曲を越えるエレクトロ/アンビエントの楽曲の数々は、今年僕が聴いたすべての音楽の中でも指折りの名曲ばかりだ。明らかにゲームミュージックという範疇を超えていて、どちらかというとゲーム好きはもちろんだが、音楽好きの人や、ゲームに興味のない人にこそ聴いていただき、その質の高さに驚いてほしいものだ。そうして、泉和良という作家の驚異的な才能に興味を持っていただきたい。全くジャンルの垣根を越えて、こんなところで質の高いものを作っている人がいるということをぜひ知っていただきたい。

アンディー・メンテの楽曲や映像作品はYouTubeなどでも、たとえば「うんぽこ」「メリークリスマス アンディーメンテ」、聴くとものすごくやけっぱちで悲しい気持ちになる「あんこくねこぐんだん」、あるいは「キューティーライダー」などを楽しむことができる。「キューティーライダー」の「さよならスウィーティー」の回などはむやみに燃えるいいムービーだ。余談だが「うんぽこ」のムービーは流水大賞の優秀賞授賞式において滝本竜彦の手によって講談社の偉い人が集まる前で流されたという噂であり、だとすればなかなか抱腹絶倒なエピソードではある。

しかし「君が忘れていった水槽」に付けられた楽曲は上記にあげた動画とはまた一線を画するもので、僕はこちらの方がずっと好きだ。配布されているゲームのアーカイブを解凍すれば音声ファイルがWAVE形式で収められているので、これをiTunesなどに突っ込んで好きなときに楽しんでもいいと思う。僕はそうしている。本当に流していて気持ちのいい音楽なのだ。

2008.10.14 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [ゲーム] [映像] [文章

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